考える力、動く力

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選挙カーっていつまで使うんでしょう?

選挙だ。

選挙カーがうるさい。

あの氏名連呼に何の意味があるのだろう。
あれを聞いて投票しようと思う人がいるのだろうか。


ただ、何年も前からずっと存在するからには、
あのスピーカーに熱心に耳を貸しているような人も
もしかしたら多かったりするのかもしれないと思い、
試しに、ネット上で世論を調べてみた。

テクノラティのブログ検索で、
「選挙カー」で検索してみる。




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自己犠牲の一歩先

最近常々思う。

自分だけ損をすれば簡単に片付く問題は多い。

そして、そうすることは非常に楽。

しかし多くの場合、それでは根本の解決にはならず
見るべき問題を見えないようにしているだけだったりする。


例えば、私は小学生のころから、
クラスで何か役員や係などを決めようとするときに、
誰も手をあげる人がいなくて決まらないときは
自分が引き受けて解決するならそれでいいやと思っていたし、
事実、そうしてきた。

長い時間手があがらずに互いに押し付けあう気まずさに比べたら、
それが楽な解決策であったからだ。

そして、そうした自己犠牲心を持った自分は立派だと考えていた。


しかし今考えると、これは問題を先送りしていただけの話である。

毎回クラスで誰かを選ぶときには、
「あいつが手をあげるのを待てばいいや」ということになり、
自分ひとりが我慢をし続けることになる。


そして、とうとう我慢の限界というそのときになって初めて、
「なぜ誰もやりたがらないのか」
という根本の問題に焦点が当てられることになる。
これは非常に遠回りである。


今になっても事態は全く同じだ。

例えば、イベントを企画する。
「面白いけど、このプランだと○○円の赤字が出ちゃうね」
となる。

低い額であれば、自分のポケットマネーから出して
解決してしまいたくなる。

しかし、それでは同じこと。

イベントを企画する度にポケットマネーを登場させなければならなくなり、
継続していくのが苦痛になる。


まず損な役回りを買って出る前に、
「誰も損をせずに済む道はないか?」
この問いをとことん問い続ける。

自己犠牲は最後の手段だ。

人生の素敵なことは、だいたい最後のほうに起こる。

エイチアンドアイという会社のCM





和田秀樹氏も主張していることであるが、
「いじめ撲滅」というメッセージとは別として、
自殺防止それ自体も強調して訴えられていかねばならないと思う。




動画はhttp://www.h-and-i.co.jp/の画面左上からも見れます。


個別指導学習塾の落とし穴

近年、個別指導型の学習塾が非常に増えた。

一昔前までは、塾といえばもっぱら集団授業であったが、
「日本の学校はクラスの人数が多すぎる」
といった論が目立つようになるとともに、
「一人ひとりをしっかりサポート」というような
至極わかりやすいうたい文句のもとで
個別指導型の学習塾が徐々に幅をきかせるようになった。

集団授業よりも多数の講師を用意する必要性を理由に、
家庭からは高額の授業料を受け取り、
アルバイト講師の賃金を低くすることがスタンダードとなった。


しかし、ここに落とし穴がある。

完全に講師と生徒が1対1の指導形式ならよいが、
講師1人に対して生徒2人、3人となってくると、
事実上、1人の生徒に対して講師がかける時間は
2分の1、3分の1となる。

そこで講師は、生徒が暇になる時間をつくらないように、
1人に問題をやらせている間にもう1人を指導、という形をとる。

しかし、これは簡単なことではない。
1人に指導している間、もう1人が黙って問題をやっていてくれればいいが、
現実にはそううまくはいかない。
そもそも一人で問題ができる子なら、あまり塾に来る必要はない。

その結果、生徒はしばしば、
考えてもわからない問題を必要以上に考えさせられ、
講師の説明がいまいち理解できなくても、
待たされている子のことを考えて理解できたフリをしてしまう。


もちろん、これは基本的に講師の技量の問題であるから、
2人相手でも3人相手でも、見事に授業をこなしてみせる講師もいる。

しかし、そういう講師ばかりを集めるためには、
現在の大多数の塾の時給は安すぎる。

給料は、お金のために働く人間を集めるものではない。
正当な評価を求める人間のために必要なのだ。


繰り返しになるが、
集団授業に問題があるからといって、
現在主流の個別指導という形式を手放しに褒められたものではない。

また、集団授業にもメリットでも述べたように、
集団授業にも、生徒間の相互作用が望めるという良さがある。

「塾の一斉指導にはついていけなかった」という声はよく聞くが、
それは集団授業という形式の問題点でもあるが、
同時に、クラスの編成や方向付けに問題がないかということは
常に考える必要がある。

人間と意識しない瞬間

人間を人間と意識しない瞬間。


誰もが誰かを人間と意識しなかった瞬間を経験しているし、
誰もが誰かから人間と意識されなかった瞬間を経験している。

例えばそれは、道端でポケットティッシュを受け取る瞬間。
コンビニのレジで商品のお金を払う瞬間。
学校の授業で、前の席からまわってきたプリントを受け取る瞬間。
家に来た郵便物を受け取る瞬間。

いつも、相手がどんな人であるか、
その人に興味をもち、顔を見て接しているだろうか。


これは一種、効率化の問題である。

事実、今日の近代社会は、
機械にできることを機械にまかせることによって発展してきた。
それが自動販売機であり、電子メールである。

でも、そういった機械が普及している世界だからこそ、
人間と接するときには、相手が人間なのだということを
常に意識するようにしたい。


最近、つまらないことに対して腹を立てる人が多いように感じている。

「レストランで出された料理に髪の毛が入っていた」
「レジの人がとろくてしばらく待たされた」
「映画館で後ろの人がずっと咳しててうるさかった」
「上の階の住人の足音がうるさい」
「今日届くはずの郵便物が届かない」

こういった憎しみのほとんどは、相手の顔が見えないことによって
生じていると思う。

腹を立てるまえに、
「もし相手が親しい友人だったら?」と考えてみてほしい。

「まったく何やってんだ!」じゃなくて、
「頑張ってるなぁ」「大変だなぁ」と思えることがきっと多いはずだ。


相手を「適切な役割を果たす機械」のように考えるから腹が立つ。
でも、実際はそうではない。
相手も人間なのだ。

効率化の勢いにまかせて「相手の身になって考える時間」まで
削減してしまわないようにしたいものだ。


『おおきなかぶ』:小学校の国語の授業

小学1年のとき、国語の授業で『おおきなかぶ』
こちらの「第3部  ひらがな文」参照)
を読んだときのことを今でも覚えている。

大きなかぶを、おじいさんが
「うんとこしょ、どっこいしょ。」と引っ張るが抜けず、
どんどん引っ張る人を増やしていって、
おじいさん、おばあさん、まご、いぬ、ねこ、ねずみで引っ張って
ようやく抜けるというお話。


この授業が記憶に残っているのは、
実は、先生の出したひとつの質問に答えられなかったからである。

その質問は、
なぜ「まだまだかぶは抜けません」から、人(いぬ)が増えたとき、
「まだまだまだまだ抜けません」になっているのか?
というもの。

引っ張る人が増えたら力が強くなるはずなのに、
なんで「まだまだまだまだ」なのか?

これがわからなかった。


今だったら、それらしい解釈でもっともらしい説明はできる。

例えば、
「人が増えて、かぶが抜けるだろうという期待は強くなっているのに
かぶは全然抜けそうにないから、
期待とのギャップが大きくなって『まだまだまだまだ』なのだ」
という感じだ。


しかし、これを小学1年生相手にどうやって説明したものか。

同じように説明してしまってよいのだろうか。
あるいは、4人分の「まだ」で「まだまだまだまだ」だといった感じで
ごまかしてしまってよいものだろうか。


当時の先生がどういう説明をされていたのかは覚えていないが、
いまいち自分は納得できなかったということだけは覚えている。

しかし、当時理解できなかったとしても、
生徒が成人してもなお記憶に残るような発問をしたというだけで
この授業は大成功であったといえる。


生徒が好むこと、楽しめることが必ずしも良いことではない。
生徒が容易に理解できないこと、進んでやりたがらないことの中にも、
生徒の知的好奇心を刺激し、思考を豊かにするものは確かにあるのだ。




 参考

大きなかぶ (こまいぬ道場)
おおきなかぶ (立川子育てブログ)




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