小学生だったとき、
教室で席替えをする際にもめたことがあった。
そのときの席替えは、
まずくじ引きで6人ずつの班に分かれ、
班の中での席は、班のメンバーで相談して決める
という方法をとっていたのだが、
ひとつだけ、いつまでも話し合いがまとまらない班があったのだ。
ある者は「○○くんが隣だと、うるさくて授業に集中できない」と言い、
ある者は「前に○○くんが座ると黒板が見えない」と言った。
ある者は「目が悪いから前の列がいい」と言い、
ある者は「私は寒がりだから戸のそばは嫌だ」と言った。
そこで先生がクラスの皆に対して問うた。
「みんなはどうすればいいと思いますか?」
他の生徒から次々に提案が出された。
「○○ちゃんが前に座って、○○くんがその横で・・・」
「いや、○○くんが後ろに座って・・・」
そのどれもが、あちら立てればこちらが立たぬという
感じのものであった。
まだ手を上げている生徒がいる中で、
先生はそれを打ち切って、ゆっくりと話した。
「全員の希望が常にかなうわけではない。
誰かが我慢しなければならない。」
実際にはもっと多くの言葉を使ったと思うが、
つまるところ、先生はそういう意味のことを話した。
そしてその後、その班の中に
「私、ここでいいよ」という者が現れ、
席替えは無事まとまることができた。
教師がこの席替えという機会をうまく利用したことで、
生徒たちは「誰かが我慢しなければならない」ということを
学ぶことができたのである。
今考えても、教師の力量を感じさせる授業であったと思う。
しかし、当時の私は、全く別のことを考えていた。
「全員の希望がかなう方法があるじゃないか」
ということである。
そして、そのような理想の解決策は、実際にあったのだ。
(私も手を上げていたが、当てられる前に打ち切られてしまった・・・。)
では、なぜ他の生徒たちは
それを見つけることができなかったのだろうか。
それは、班のメンバー全員の主張を
正確に把握できていなかったためである。
他の生徒から出される意見を聞いていると、
「○○くんの隣が嫌だということは、○○くんの隣も嫌だろうな」
というような勝手な推測が含まれていたり、
「○○さんは前回も○○さんの隣だったから今度は違うほうがいいだろう」
というように、
本人の主張とは違う点を重要視しているような意見が多かった。
つまり、最初にメンバーひとりひとりが
最も重視する点を確認しておき、
それが全てかなう方法を模索していけば
おのずと解決策は見つかったはずなのである。
このような問題解決について考えさせることも
また大切なことだったのではないかと思う。
我慢することの大切さを学ばせることは、重要なことである。
子が我慢することが少なくなったといわれる
このような時代においては、なおのことである。
しかし、一方で、常に最善の方法を探すために
考えられることは全て考てみるということも極めて重要である。
ものごとをすぐに諦めてしまう子が多いといわれる
このような時代においては、なおのことである。
いつでも、我慢をする前に、
それが必要な我慢か、不必要な我慢かを考えるべきだ。
そうでなくては、
常に決まった者が得をし、
決まった者が我慢させられることになってしまう。
教室で席替えをする際にもめたことがあった。
そのときの席替えは、
まずくじ引きで6人ずつの班に分かれ、
班の中での席は、班のメンバーで相談して決める
という方法をとっていたのだが、
ひとつだけ、いつまでも話し合いがまとまらない班があったのだ。
ある者は「○○くんが隣だと、うるさくて授業に集中できない」と言い、
ある者は「前に○○くんが座ると黒板が見えない」と言った。
ある者は「目が悪いから前の列がいい」と言い、
ある者は「私は寒がりだから戸のそばは嫌だ」と言った。
そこで先生がクラスの皆に対して問うた。
「みんなはどうすればいいと思いますか?」
他の生徒から次々に提案が出された。
「○○ちゃんが前に座って、○○くんがその横で・・・」
「いや、○○くんが後ろに座って・・・」
そのどれもが、あちら立てればこちらが立たぬという
感じのものであった。
まだ手を上げている生徒がいる中で、
先生はそれを打ち切って、ゆっくりと話した。
「全員の希望が常にかなうわけではない。
誰かが我慢しなければならない。」
実際にはもっと多くの言葉を使ったと思うが、
つまるところ、先生はそういう意味のことを話した。
そしてその後、その班の中に
「私、ここでいいよ」という者が現れ、
席替えは無事まとまることができた。
教師がこの席替えという機会をうまく利用したことで、
生徒たちは「誰かが我慢しなければならない」ということを
学ぶことができたのである。
今考えても、教師の力量を感じさせる授業であったと思う。
しかし、当時の私は、全く別のことを考えていた。
「全員の希望がかなう方法があるじゃないか」
ということである。
そして、そのような理想の解決策は、実際にあったのだ。
(私も手を上げていたが、当てられる前に打ち切られてしまった・・・。)
では、なぜ他の生徒たちは
それを見つけることができなかったのだろうか。
それは、班のメンバー全員の主張を
正確に把握できていなかったためである。
他の生徒から出される意見を聞いていると、
「○○くんの隣が嫌だということは、○○くんの隣も嫌だろうな」
というような勝手な推測が含まれていたり、
「○○さんは前回も○○さんの隣だったから今度は違うほうがいいだろう」
というように、
本人の主張とは違う点を重要視しているような意見が多かった。
つまり、最初にメンバーひとりひとりが
最も重視する点を確認しておき、
それが全てかなう方法を模索していけば
おのずと解決策は見つかったはずなのである。
このような問題解決について考えさせることも
また大切なことだったのではないかと思う。
我慢することの大切さを学ばせることは、重要なことである。
子が我慢することが少なくなったといわれる
このような時代においては、なおのことである。
しかし、一方で、常に最善の方法を探すために
考えられることは全て考てみるということも極めて重要である。
ものごとをすぐに諦めてしまう子が多いといわれる
このような時代においては、なおのことである。
いつでも、我慢をする前に、
それが必要な我慢か、不必要な我慢かを考えるべきだ。
そうでなくては、
常に決まった者が得をし、
決まった者が我慢させられることになってしまう。
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