考える力、動く力

たとえば「腐ったみかん」という発想

昨日の「太田光の私が総理大臣になったら」で、
女医の西川史子さんが「腐ったみかん」と発言したことに対し、
ヤンキー先生こと義家弘介さんが
「あなたに教育を語る資格はない!」と激怒した。


しかし大田総理は、ヤンキー先生のこの発言を批判した。
「誰にだって教育を語る資格はある」ということである。


確かに、と思った。
教育対象としての生徒の中から「腐ったみかん」を排除するということが
よからぬことであるなら、
教育を語るものの中から「腐ったみかん」という思想をもつものを
排除することについても同様なのではないか、ということだ。


「聖職」という言葉に象徴されるように、
これまでの教育に関する議論には、
確かにこのようなきらいが含まれていたように思う。
つまり、「我々が日本の教育を担うんだ」という変な自負心というか、
「教育に携わるもの」についての、暗黙の前提である。


そのなかで、自然とタブーとされるような言葉ができてきた。
「腐ったみかん」「落ちこぼれ」「クズ」などなど。




もちろん、人に向かって「おまえはクズだ」ということは、よくない。
しかし、それは教育どうこうという以前に、
普段の社会生活において問題視されるべきことであろう。
こと教育という領域に関してのみ特別視されるべき問題ではない。


逆にいえば、教育の世界で大事にされるべきことは
他のどの分野・領域においても大事にされるべきことなのである。


なぜなら、教育の基本は「人」なのだから。


いろんな人のいろんな思想や行動を受け入れ、
理解しようと努めることが、
いろんな生徒を教育する上では必要不可欠ではないだろうか。