考える力、動く力

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

たとえば「腐ったみかん」という発想

昨日の「太田光の私が総理大臣になったら」で、
女医の西川史子さんが「腐ったみかん」と発言したことに対し、
ヤンキー先生こと義家弘介さんが
「あなたに教育を語る資格はない!」と激怒した。


しかし大田総理は、ヤンキー先生のこの発言を批判した。
「誰にだって教育を語る資格はある」ということである。


確かに、と思った。
教育対象としての生徒の中から「腐ったみかん」を排除するということが
よからぬことであるなら、
教育を語るものの中から「腐ったみかん」という思想をもつものを
排除することについても同様なのではないか、ということだ。


「聖職」という言葉に象徴されるように、
これまでの教育に関する議論には、
確かにこのようなきらいが含まれていたように思う。
つまり、「我々が日本の教育を担うんだ」という変な自負心というか、
「教育に携わるもの」についての、暗黙の前提である。


そのなかで、自然とタブーとされるような言葉ができてきた。
「腐ったみかん」「落ちこぼれ」「クズ」などなど。




もちろん、人に向かって「おまえはクズだ」ということは、よくない。
しかし、それは教育どうこうという以前に、
普段の社会生活において問題視されるべきことであろう。
こと教育という領域に関してのみ特別視されるべき問題ではない。


逆にいえば、教育の世界で大事にされるべきことは
他のどの分野・領域においても大事にされるべきことなのである。


なぜなら、教育の基本は「人」なのだから。


いろんな人のいろんな思想や行動を受け入れ、
理解しようと努めることが、
いろんな生徒を教育する上では必要不可欠ではないだろうか。


スポンサーサイト

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。