最近常々思う。
自分だけ損をすれば簡単に片付く問題は多い。
そして、そうすることは非常に楽。
しかし多くの場合、それでは根本の解決にはならず
見るべき問題を見えないようにしているだけだったりする。
例えば、私は小学生のころから、
クラスで何か役員や係などを決めようとするときに、
誰も手をあげる人がいなくて決まらないときは
自分が引き受けて解決するならそれでいいやと思っていたし、
事実、そうしてきた。
長い時間手があがらずに互いに押し付けあう気まずさに比べたら、
それが楽な解決策であったからだ。
そして、そうした自己犠牲心を持った自分は立派だと考えていた。
しかし今考えると、これは問題を先送りしていただけの話である。
毎回クラスで誰かを選ぶときには、
「あいつが手をあげるのを待てばいいや」ということになり、
自分ひとりが我慢をし続けることになる。
そして、とうとう我慢の限界というそのときになって初めて、
「なぜ誰もやりたがらないのか」
という根本の問題に焦点が当てられることになる。
これは非常に遠回りである。
今になっても事態は全く同じだ。
例えば、イベントを企画する。
「面白いけど、このプランだと○○円の赤字が出ちゃうね」
となる。
低い額であれば、自分のポケットマネーから出して
解決してしまいたくなる。
しかし、それでは同じこと。
イベントを企画する度にポケットマネーを登場させなければならなくなり、
継続していくのが苦痛になる。
まず損な役回りを買って出る前に、
「誰も損をせずに済む道はないか?」
この問いをとことん問い続ける。
自己犠牲は最後の手段だ。
自分だけ損をすれば簡単に片付く問題は多い。
そして、そうすることは非常に楽。
しかし多くの場合、それでは根本の解決にはならず
見るべき問題を見えないようにしているだけだったりする。
例えば、私は小学生のころから、
クラスで何か役員や係などを決めようとするときに、
誰も手をあげる人がいなくて決まらないときは
自分が引き受けて解決するならそれでいいやと思っていたし、
事実、そうしてきた。
長い時間手があがらずに互いに押し付けあう気まずさに比べたら、
それが楽な解決策であったからだ。
そして、そうした自己犠牲心を持った自分は立派だと考えていた。
しかし今考えると、これは問題を先送りしていただけの話である。
毎回クラスで誰かを選ぶときには、
「あいつが手をあげるのを待てばいいや」ということになり、
自分ひとりが我慢をし続けることになる。
そして、とうとう我慢の限界というそのときになって初めて、
「なぜ誰もやりたがらないのか」
という根本の問題に焦点が当てられることになる。
これは非常に遠回りである。
今になっても事態は全く同じだ。
例えば、イベントを企画する。
「面白いけど、このプランだと○○円の赤字が出ちゃうね」
となる。
低い額であれば、自分のポケットマネーから出して
解決してしまいたくなる。
しかし、それでは同じこと。
イベントを企画する度にポケットマネーを登場させなければならなくなり、
継続していくのが苦痛になる。
まず損な役回りを買って出る前に、
「誰も損をせずに済む道はないか?」
この問いをとことん問い続ける。
自己犠牲は最後の手段だ。
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