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言葉を正しくつかうということ

「最近の若者は言葉遣いがまるでなってない」
なんて話を耳にすることは決して少なくないと思うが、
今回は「正しい言葉遣い」について考えてみたい。




前提として初めにひとつ確認しておきたいのは、
言葉というのは流動的なものであり、
常に変化するものだということである。


古い言葉が次々に使われなくなっていき、
次々に新しい言葉が誕生する。
これは世の中が常に変化していることを考えれば
当然のことである。




さて、コミュニケーションツールとしての
言葉のはたらきに限っていうならば、
当然、言葉は伝わらなければならない。


コミュニケーションにおいては、
辞書的な意味での「正しさ」よりも、
「双方が同一の意味で理解できること」が
何よりも重視されるべきであるというのが私の考えだ。


つまり、若者が老人に向かって
「パケ代チョーヤバイからパケほにしたい」
なんて言ってもおそらく伝わらないのと同じように、
老人が若者に対して
「志学のときじゃぞ」なんてことを言って、
「近頃の若者はこんな言葉も知らないのか」
などと言うのもおかしいということだ。


世代によって文化が異なり、
その世代の文化にとって必要な言葉がつかわれるものなのである。


だからマスコミなんかが
「『□の下の力持ち』の□に、
『縁』と答えられた高校生はたった○○%」

なんてことを得意げに報道しているのを見ると
あほらしくなってくる。
縁の下なんて見たことのない高校生のほうが多いのである。


それならば同じように
「『キレる』と『逆ギレ』の意味の違いを
正しく説明できた主婦は○○%」
というのをやってほしい。




また、「全然良い」というような
「全然+肯定形」の表現や、
「食べれる」といった「ら抜き」の表現を
嫌う人も多いが、
「正しくない言葉だからつかうな。」ではなく、
なぜこのような表現が用いられるのかを考えてほしい。


そうすれば、
「全然良い」というのは単に「非常に良い」と同義ではなく、
「(予想・期待に反して)良い」というような
ニュアンスが含まれているということや、
「食べられる」では受身か尊敬か可能かわからないが、
「食べれる」ならすぐに可能表現だとわかるという点で便利である
ということにも気が付くはずである。




最後にことわっておくが、
私は「古い言葉なんて存在価値がない」
ということを言っているわけでは決してない。


最初にことわった通り、ここまでの話は
あくまでコミュニケーションツールとしての
言葉のはたらきのみを考えた場合の話である。


ここでは詳しく述べることはしないが、
言葉というのはそれ自体が美しいものであるし、
カッコイイ表現、きれいな表現は
消えずに残っていてほしいと強く思っている。


学校で古典を学習することの意義のひとつは
そこにあると思う。


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